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2018-02-09
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アナログ絵楽しいですね。




普段デジタル絵を描くときは何十万円とする高っかいモニターをカバーまで付けて使わせてもらっていて、それはもう色味が最高オブ最高なのですが、
そこで描いた絵を、自宅のボロボロの安っすいモニターで見るともう悲惨で、全然別の絵で、目も当てられなくて、なので本当に自宅では絵を描く気が起きない。

つまりはデジタル絵の出来は見る側の環境に影響を受けまくる恐れがあるわけで、そう思うともう色数の多い風景画なんて描く気が薄れていってしまう。
モニタが違えば色も違ってしまうのなら、色味の調整をし続けたあの3時間はなんだったのか、という具合。
見る側はそんなことどうでもいいのだろうけれど、描き手側のモチベーションとして。
シンプルなベタ塗りへとデジ絵が移行していくのは必然なように思う。

じゃあここからアナログ原理主義の話にもっていこうというわけではなくて、
というのも突き詰めてしまえば、色味の感じ方の違いはモニタの影響だけでなく、個人個人の目の見え方も違うという揚げ足取りにまでなってしまう。
瞳が青い外国人には景色の色味が違って見えるし、僕は野球をするときにアイブラックを必要としない。でもだからといって描き手としてそこまで考えを及んでもいられないのだ。

なので結局は何処かでテキトウに折り合いをつけなければならない。例えばスマホ業界ならある程度端末が絞られるので描きやすいけれど、そうではない場所ではサムソンだろうがEIZOだろうが結局は同じ話である。それぞれがそれぞれの正義でベンチマークがベンチしない。それぞれ夏が駄目だったりセロリが好きだったりする。

だがしかし。
色味の違いの影響を受けない表現が一つだけあるように思った。
白黒だ。
白と黒。
色なんて無くしてしまえばいい。
かつて鮮やかさ追求したゴッホは、黄色を描くとき黄色を使わず赤と緑を点描することによって、鑑賞者へ黄色を幻視させたという。それは確かにどんな黄色よりも黄色だったように思う。
しかしそれすらも超える、視覚混合さえも超えた色彩表現があるとすれば、矛盾しているけれどそれはモノクロなのかもしれない。
つまり錯視ではなく、想像。
想像の中の景色は、網膜が映し出すどんな色彩よりも鮮やかだ。現実なんて大体灰色である。目黒いし。

なので想像力に勝るものはないように思う。
例えば小説。
「"むせかえるほどに暴力的な鮮やかさ"」を絵で表現することを、僕はできない。
しかし小説では、たったその一文であっさりとそれを成し得てしまう。もちろんフォローを修飾することは必要なのだろうけれど、基本的にはきっかけの一文を与えるだけで十分なようにも思う。
その文から、読み手が自分にとって最適な「むせかえるほどに暴力的な鮮やかさ」を想像し、生成してくれるからだ。
誰かからの押しつけがましい鮮やかさではなく、自分にとっての最適解を自分自身で頭の中の脳みその中のA10神経系にダイレクトに作り上げて直接脳内にキメてブチかましちまったらそれに勝るものなんてマジ卍でしょう??


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なので想像をさせるべきなのかもしれない。
つまり想像を促すような表現、それがモノクロなのかはまだわからないけれど、とにかくそれを突き詰めていくべきなのかもしれない。

ん、でも。
そうなると今度は受け手の想像力に依存することになってしまうのだろうか。
それって結局は受け手側のモニター問題と同じなのでは。
あれこれ振り出しに戻ったぞ。やばい。ちょっと待って。あーあとちょっとだったのに。



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