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2017-09-28
写真 2017-08-07 13 55 32

とあるyoutuberの動画を見ていた。


あきらかに釣りをする格好ではないおしゃれワンピースを着た女性が一人で海釣りをしている動画で、
釣れない~と嘆きながら終わった動画であった。大丈夫俺は釣られた。
服装についての指摘コメに目を奪われていたら、自動で次の動画に切り替わってしまった。
次の動画では前回の動画へのコメントでの指摘を受け、釣り用の服を買ってきましたという動画だった。
ひとつ前の大人びた格好から打って変って、今度はいかにもアウトドアな格好である。
そこで、「可愛い人は何着ても似合うなぁ」となんとなく思った。
しかし、自分で自分が言ったことに、なんだか引っかかりを感じたのだった。



「可愛い人は何着ても似合う」という言葉はよく聞くように思う。
全くその通りだとは自分も思うのだけれど、この言葉はどうにもしっくりこないというか、なにか言葉足らずな表現な気がしていた。

例えば、なんの変哲もないTシャツがあるとする。
なんでもいい。ライブTシャツとかで良い。
それを可愛くない人が着ると可愛くない。
でも可愛い人が着ると可愛い。
それに対して「可愛い人は何着ても似合うね」と誰かが言う。
それは、なんだか違和感がある。

……あるよね?
ないかな。
なんだか使う物差しを間違えているというか、ズレてるような気がするんだけれど、何がズレてるのかいまいち言語化できない。



最近、私服絵を描いていて思うのは
2次元の上では何を着せても似合う、ということである。
それは現実の世界には余り起こらないことのように思う。

しかしイラストの世界では、そんな「どんな服でも似合ってしまうパーフェクト超人」が簡単に存在できてしまっていて、そしてそれは別に特別なキャラクター性が必要なわけでもないように思う。
この現象は、「"学校一の美少女"として出てくるアニメキャラが、他のクラスメイトのキャラと可愛さがそんなに変わらない」ことと似ている気がする。
そこには「学校一の美少女」という設定だけが残り、相対的な可愛さのレベルコントロールはないがしろにされ、属性だけを置いて放置されている。モブキャラとヒロインの可愛さに大きな違いがないのだ。
もはやキャラのコモディティ化である。
その世界では「可愛さ」という概念は形骸化され、もっと他の、別の属性によってパーソナリティを獲得している世界のように思う。



イラストの世界は置いておいて、現実に戻る。
何着ても似合うのは可愛いからなのだろうか。
たしかに今回挙げた、とあるyoutuberはとても可愛らしい方だった。
しかし、キャラのコモディティ化で感じたように、可愛さは服の似合う似合わないに対してのアドバンテージとしては、それは勿論強いのだけれど、でもそれだけでは確実なものでもないように思う。別のパーソナリティがあっても不思議ではない。
可愛いとなんでも似合うけど、可愛いだけじゃなんでも似合うとは言いにくい、というような歯切れの悪い微妙な感じである。

「どんな服でも似合ってしまうパーフェクト超人」
もしそんなものが現実に存在するとすれば、それは多分マネキンだけのように思った。
マネキン。
それは確かに、そこに可愛さを必要としなく、なんでも似合ってしまう存在。
つまり俺は2次元のイラストに対して、そして今回のyoutuberのことを、「可愛い」ではなく「マネキンみたい」だと感じているのだろうか。
「可愛い人は何着ても似合う」という言葉の違和感の正体はこれなのだろうか。

じゃあこれからは「君はマネキンみたいで何着ても似合うね!」っていえばいいのかな。
いやいや。
言えるわけがない。

でも、
しっくりきてしまった。
困るな。
これは同時に、俺の描いているキャラは空っぽでマネキンなのだと肯定していることになってしまう。
おいおい。
困るぞ。
余計な思考をしてしまった。
やめてよ!
忘れよ忘れよ。









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